村山 太郎

村山 太郎 准教授
むらやま たろう

言説論や物語論を援用して、中古文学テキストの表現性を明らかにしたり、それを踏まえた古文教育を考えたりしています。中古文学テキストは『源氏物語』を中心に研究しています。また、古文教育は、中高教育現場での経験も踏まえつつ、学習者の〈今〉に密接に関わる古文学習を考えています。
 私たちは、自分の表現を、色々な表現(おしゃべりや小説など、誰かが話した言葉の全て)に影響されて作り上げています。「その言い方いいな」と感じた表現を、自分なりにアレンジして自分の表現として使うことがありますが、これなどは私たちの表現が誰かの影響下にあることを伝える端的な例でしょう。これは古文も同様で、古文の表現は、当の古文を取り巻く多くの表現に影響されて出来たものです。私の関心は、誰かの表現に影響されて自分の表現として生み出そうとする、その内側を明らかにすることにあります。また、そうして明らかにされたことを、学校の古文学習に接続したいと考えています。私たち自身にとって表現とは誰かからの影響を免れないのであれば、古文がそうであったように、古文に学ぶ生徒たちも同じです。生徒たちが古文学習を通して、自身と表現との関わりをよりよく考える。そのような学習空間を作り出したいと考えています。

村山ゼミブログ

連絡先tmura89★mukogawa-u.ac.jp
(注)★を@に変えてお送りください。
担当教科古文入門 国語科指導法 など
専門領域中古文学、古文教育
所属学会広島大学国語教育会 中古文学会 日本文学協会
経歴広島大学大学院教育学研究科文化教育開発専攻(博士課程後期)卒業
博士(学術)取得
広島大学附属福山中・高等学校国語科教諭を経て
武庫川女子大学文学部日本語日本文学科(現職)に至る
主な業績

「『源氏物語』論―〈産む性〉と『源氏物語』テキストの「対話」」、広島大学国語国文学刊『国文学攷』第168号、2005 年
「『源氏物語』研究―『源氏物語』テキストの「対話」性の分析とその教材化―」(博士論文)、広島大学、2006年
「〈自分らしさ〉を迫る時代の国語の学習」、広島大学国語教育学会刊『国語教育研究』第49 号、2008 年
「学習者とテキストとの出会い」、広島大学附属福山中・高等学校刊『中等教育研究紀要』第51 巻、2011年
「古文学習のアポリアの向こう側―『平家物語』テキストと学習者との出会い―」、広島大学附属福山中・高等学校刊『中等教育研究紀要』第53 巻、2013 年

担当する授業の内容・魅力

私が担当するのは「国語科指導法」という科目です。「国語科指導法」とは、名前を見ればおおよその察しはつきますが、国語の教員免許(中・高)に関わる科目です。
 その内容は、国語の授業の歴史や国語の授業の作り方、これからの国語の授業の在り方などを教わったり、教わったことを踏まえて自分で考えたりするというものです。そして、これが一番大切なことですが、こうした内容を通して、実際に教壇に立ち、国語の授業を行える力を身につけます。ですから、「国語科指導法」という科目では、教わり、考え、発表することを他の科目と同じように行うのですが、発表の中に、自分で考えて作った国語の授業を模擬的に行うという内容が入ってきます。模擬授業という発表内容を持つのが「国語科指導法」という科目の特徴でもあるし、魅力でもあります。
 私たちにとって国語の授業は物心つく頃からずっと受けているので、ごく当たり前の風景ですし、国語の授業と言われて何も思い浮かばないというようなことはないでしょう。ですが、授業を受ける側から授業をする側に立場が変わると教室の風景は一変します。例えば、生徒にとって教室とは授業時間を過ごす場所なのですが、授業者にとって教室空間は授業を円滑に進めるための道具がいっぱいある空間に変わるといった具合です。授業者となれば、それらの道具を授業でどう使おうかと考えなければなりません。
 授業者になれば教室がどのように見えるかということもそうですが、授業内容についても同じことが言えます。数限りなく受けてきた国語の授業ですが、私たちが目にしているのは授業作りという過程を経た結果の部分だけです。実は、私たちが受けている国語の授業には、学習者の課題を把握し、教材を分析して、授業の実際を計画する(時にはその計画を「指導案」と呼ばれる授業計画書に記述する)という、授業準備の時間があるのです。
 数多くの国語の授業を比較するということも、授業を受ける側であれば普通することはありません。ですが、授業の形の決定には、特定の理念や読みの理論といった、大きく言えば思想がどうしても関わってくるので、授業者としてどの立場に立って授業を作ろうとしているのか。それを意識して授業を作るためには、過去の授業や今現に行われている授業を反省的に振り返ることが必要になります。
 このように、授業を受ける側では思いも寄らなかったことをいくつか考えて形になっているのが実際の授業なのですが、「国語科指導法」の模擬授業はそれを試しに行ってみることでより実践的な力を身に付けていくのです。
 模擬授業を特徴とする「国語科指導法」ですが、その魅力は、色々あるうちの一つをあげるなら、模擬授業を行うことで今の自分の言葉の力がはっきりと確かめられることです。初めて模擬授業を行った学生さんの多くが、「こんなにも自分の説明の言葉が生徒役の人たちに上手く伝わる/伝わらないなんて想像もしていなかった」と口にします。上手くいく場合も、上手くいかない場合も当然あるわけですが、どちらにしても、授業者本人の読解力や言葉の使い方が、他者(生徒役の人たち)の反応を通して分かりやすく伝わってくるのです。上手くいったのなら、もう少し難しいことにチャレンジする勇気になりますし、上手くいかなかったのなら、どこをどう変えていけば良いのかを考えるやる気につながります。自分の言葉の力を成長させるには絶好の機会だと思います。「国語科指導法」には、国語という教科そのものが持つ魅力も、教師という職業そのものが持つ魅力ももちろんありますが、自分の言葉の力を試し成長させることができるという魅力もあります。

研究の魅力

美しい王朝世界を展開する『源氏物語』は王朝物語の最高峰で、言葉で表す王朝的な美の結晶と言われます。確かに『源氏物語』が従来からある王朝物語や王朝文化をよく学び吸収した物語であろうことは疑いありません。一方で、『源氏物語』を読んでいると、伝統的な王朝文化に対する批判とも受け取れるような箇所に出会うことがあります。伝統的なものの見方や考え方を摂取していながら、摂取したもの全てに賛同してはいない。「伝統の継承」というと、伝統的なものの形を変えずに、次につなげていくというイメージになりますが、どうも『源氏物語』の「伝統の継承」はそのようなイメージでは思い描けないのです。『源氏物語』の成立の直前には、王朝社会を揺るがすような大事件(承平天慶の乱)が起こったり、仏教の考え方の転換(現世利益から後生安穏)が起きたりしています。伝統的なものの見方や考え方のうち、あるものは当たり前のそれではなくなり、あるものは古いものになっていたのです。そのような時に、従来からの伝統的な表現を単になぞるだけというのは考えにくいでしょう。他にも『源氏物語』が伝統的な王朝文化には収まりきらないものになった原因は色々考えられますが、いずれにせよ、『源氏物語』が伝統的な文化をどのように「承」け取り、どう引き「継」いでいったのか。このような問いを立てて『源氏物語』を改めて理解しようとすることが、私の研究になります。では、こうした試みの魅力とは何でしょうか?
 私は自分の研究の魅力をこんなふうに考えています。伝統的な文化を固有の仕方で「継承」するのは、何も『源氏物語』だけの話ではないでしょう。おそらくどのような古文作品であっても、それぞれの仕方で伝統的な文化を「継承」しているはずです。そして私たちもまた、様々な言語表現に取り巻かれ、それに影響されつつ言葉を発しているという意味で、伝統的なものに限らず、種々の他者の言葉を日々「継承」しています。そのように考えれば、『源氏物語』に見える「継承」の実際は、私たち自身の「継承」の仕方を照らし出す、一つの機会になり得るのではないでしょうか。これが、この研究の大きな魅力の一つです。
 さて、私は『源氏物語』の「継承」の実際に関心を寄せながら、やはり、学校の古文学習でもそうした古文作品の姿を通して学びを深めてほしいと思って研究してもいます。
現在の古文学習の問題点は色々あります。問題含みの古文学習は、そもそも学校教育に必要かというような極端な声が、何年かごとに(そのような声があがる背景は異なりますが)あがるほどです。おそらくそれは、古文が学習者にとって自分に関わりのあることだと感じられないということに起因しているのでしょう。確かに、古文作品に現れる社会の形も考え方も、そのほとんどが今とは異なっているので、「ここに書いてあることは私のことだ」と思うのは無理があります。にもかかわらず、古文作品の内容を理解するところが一応の授業のゴール地点として何となく共有されています。何が書いてあるか分かった(=口語訳できた)としても、王朝の恋愛を例に取れば、恋愛の舞台になっている邸宅も、邸宅に置いてある調度品も、馴染みがないから物としての実感が湧かない。そのような舞台で展開する恋愛です。いくら書いてあることが分かってもリアルにイメージはなかなかできない。学習者と古文の距離は一向に縮まりません。
 この距離を縮めていけることこそが、古文作品の「継承」の実際に関心を寄せながら古文の学習を考える研究の魅力です。学習者自身の言葉の「継承」を、古文作品のそれを通して考え、話し手としての自分自身を更新していくことになるからです。そのような古文の学びは学習者自身と無縁なものには決してならないと考えています。

紹介したい一冊宮沢 淳郎 (著)『伯父は賢治』(八重岳書房、1989/2/1)

まず断りから入りますが、これは、宮沢賢治が最愛の妹である「トシ」の死に直面して作った詩、「永訣の朝」(1924年に賢治が自費で出版した詩集『春と修羅』に発表された詩)と必ずセットで読んでほしい本です。「永訣の朝」は多くの国語の教科書に載っている作品ですが、まだ読まれていない方は是非一読の上で手にとって併せて読んでみて下さい。
 宮沢淳郎 (著)『伯父は賢治』は宮沢賢治の甥っ子である宮沢淳郎氏がトシの書き残していた自省録を公開した本です。ですから本書の内容は、トシによる自分の振り返りが主なものになります。振り返られているのは、トシが高等女学校在籍時に起こしたある事件です。事件の内容については自省録にもつぶさに語られていますし、調べればすぐ分かるでしょうから省略しますが、トシがこの自省録を書いたのはその事件を経て日本女子大学校に進み、卒業した後(1920年)のことで、この時、トシは病に侵されており、そのまま療養むなしく亡くなって(1922年没)います。執筆時にトシが自らの死期を意識していたかどうかは分かりませんが、結果として自省録からは、事件に関わった過去の自分をなんとしても乗り越えようとする、すさまじいまでのトシの気迫が伝わってくるような気がします。
 一方で、よく知られた宮沢賢治の「永訣の朝」は、兄の目から見たトシの最期が描かれています。「永訣の朝」→トシの自省録→「永訣の朝」と読んでみると、トシが自分の人生をどう捉えていたのか、そしてそれは兄の目にはどう映っていたのかが、分かるのではないでしょうか。つまり、人生をかけたトシの苦闘への、兄からの返答として「永訣の朝」を読んでみるということです。少なくとも、「永訣の朝」という作品だけでは得られなかった読みの拡がりや深まりがあるはずです。『伯父は賢治』に収められたトシの自省録を読むことは、「永訣の朝」と併せて読むことでこれまでになかった読書体験にきっと私たちを導いてくれると思います。 ※ただ、『伯父は賢治』という本は入手困難です。ですから、大学見学のついでに大学図書館にあたってみて下さい。事前にどの大学にお目当ての本があるのかを知るには、蔵書検索システム「OPAC」が便利です。