中島敦『弟子』

皆さんは子供の時の夢を覚えているだろうか。私の場合は「ソムリエになりたい」だった。まだ酒の味も知らない癖に一体何を考えていたのだろうか。それでも叶う叶わないに関係なく、子供心にそのような将来を夢見ていた。そして同時にこうも思っていた。「良い人間になりたい」と。皆さんも同じだったならばうれしい。

時を経て子供の夢が紆余曲折していくように、「良い人間になりたい」という気持ちはやがて「良い人間になりたかった」という形に変化していった。もちろんこれは特別なことではない。良い人間になろうと努力する姿は好ましいが、結局それは一つの主義のあらわれに過ぎないように思える。だから主義の異なる人間が当然いて、それを責める資格など自分にはないように思うのだ。

子路という人物はこのような葛藤と無縁な、一つの主義に向かって進んで行くことができる人物として描きだされている。彼は学者として名高い孔子に弟子入りするが、自身はこれまで全く学問をしたことのない乱暴者であった。それが孔子の人間的魅力に惹き付けられ、嫌っていた思索の世界へと足を踏み入れる。そして子路が孔子の言うことをすっかり聞き入れ良い人間になったかというと、そうではない。彼には孔子の説く、行動に込められた気持ちが大切であるということは分かる。しかしそのためには形式が重要なのだということが分からない。分かりたくもないようにすら見える。だが子路は孔子のためならばいつでも命を投げ出す覚悟である。彼が死ぬ際に叫んだ「見よ! 君子は、冠を、正しゅうして、死ぬものだぞ!」という言葉は孔子の思想の足元にも及んでいなかったに違いない。しかし彼の血の通った言葉にかつて私は心動かされた。この紹介文を書くにあたり、久しぶりに『弟子』を読んでみた。やはり子路の言葉に胸を打たれた。その時の気持ちは嫉妬以外のなにものでもなかった。

書誌情報

弟子 中島敦作
初出『中央公論』昭和18年
所収『中島敦全集』第一巻(昭和51年、筑摩書房)
『山月記・李陵 他九篇』(平成6年、岩波文庫)
『李陵・山月記 弟子・名人伝』(平成7年、角川文庫)
『李陵・山月記』(平成15年、新潮文庫)
『ちくま日本文学12 中島敦』(平成20年、筑摩書房)
『李陵・山月記』(平成25年、文春文庫)

(M2 T・S)

2014/07/20